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1980年代の花形就職先が、軒並み経営が立ち行かなくなっていることに隔世の感あり。次はFine Chemicalの会社が立ち行かなくなるでしょう。

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①都市銀行の合併、経営破綻:1990年~。  1990年三井銀行と太陽神戸銀行の合併、および1997年北海道拓殖銀行の経営破綻が、私にとって極めて身近な出来事でした。私は1984年に就職活動をして1985年に就職して社会人になりました。就職活動において私は、幼稚に張り切って都市銀行へ軒並み会社訪問しまくったものの能力不足を見抜かれて全て門前払いだったので、これら都市銀行各社の苦境はとても感慨深かったです。  1980年代から1990年代初めにかけて、土地バブルに乗じてアブク銭を稼いでいた都市銀行各社ですが、バブル崩壊と共に土地負債を抱えて苦境に陥ったので、要するにバクチに負けたと言うことですから、自業自得だと思います。  私は山梨県と佐賀県にある2つの企業に2010年頃に勤務していたことがあるのですが、夫々のその地域一番の地銀の方が当社を訪問して来て「わが銀行は預金は沢山集まるので資金は充分あるのですが、運用先が無いんですよ。どうか借り入れて下さいませんか、わっはっは。」と仰いました。  これは例えばコンビニ店主が「うちのコンビニは、仕入れ先は沢山あるのですが、お客さんが少ないんですよ。どうか買ってくれませんか、わっはっは。」とふんぞり返って言ったのと同じです。私は、こういった優越意識が大嫌いです。地銀と言う業種は、先行きが暗いと思いました。 ②生命保険会社の経営破綻:1997年~。  都市銀行は土地バブルに直接的に資金提供して大ヤケドをしたのですが、生命保険会社は販売する各種保険について消費者に利払い保証をしていたために、低成長時代(=低金利時代)に入って金利の逆ザヤ(国債金利:利払い保証の金利差)で赤字に陥りました。故に都銀破綻と生保破綻は理由が異なります。  然しながら、生保各社は「高度成長日本」の大船に乗った心算(=何時までも高金利が続く)でドロ船に乗っていたと言うことで、経営判断上の失敗ですから自業自得だと思います。  私は1985年に製造企業の新入社員で東京本社勤務だったのですが、当時は会社オフィス内に生保勧誘オバちゃんが入り放題で、生保に何ら関心を示さない私は美肉の獲物として生保勧誘オバちゃんに付きまとわれました。ゴキブリより、生保や図々しいオバちゃんが嫌いな私は、とても不快な思いをしました。  現在61歳の私は、幸いに生命保険を活用するような状態にな

私のテニスに不足しているのは、平易なラリー(繋ぎ球)のみ。故に精神修養が必要。富士見台駅近くのカレーショップ 越後屋の大辛カレー。

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10/27(金)朝も、テニススクールでレッスンを受けました。 コーチから「貴方はチャンスボールが来た時のWinning Shot(決め球)はあるので、貴方に必要なレッスンは、チャンスボールが来るまで凡ミスをしないこと。即ち、平易なラリーを続ける根気或いは我慢の性格を身に付けること。これに尽きる。」と指導を受けて、改めて目が覚める思いでした。 確かに私は過去50年間のテニス経験において、平易なラリーを続けてチャンスボールを待つべき場面で、無理やりに格好良いShot(決め球)を打とうとしてミスして自滅して周囲に嫌な顔をされるばかりでした。ハッキリとコーチから「Winning Shotの練習はもう不要。」と指摘されたのは初めてです。 しかし確実に自覚していた自分の欠点(根気或いは我慢の不足)なので、今日は心を入れ替え、格好良いShotは決して打たず、地味な平易なラリーを一所懸命に練習しました。 これに伴い、テニスをしながら精神修養の座禅をしているような心地になりました。実際にレッスン終了後、私の心は煩悩に打ち勝った如く、久しぶりに晴れ晴れとしておりました。 テニスレッスンの後のお昼ご飯は、久しぶりに富士見台駅近くのカレーショップ 越後屋に行って、大辛ビーフカレー+ロースとんかつのトッピング 1,080円を喫食しました。 当店のカレーは、塩味が尖っていてややシツコイ辛さが特徴です。毎日食べたいカレーではありませんが、数ヶ月毎に食べたい味です。 店内のオーダーの応対やキッチンでの段取りがモタモタしているのはご愛敬で、上述のお味も含めて、寛大な友愛の心を以て訪れるべきお店です。 今朝3時頃、アレルギー性鼻炎が突然酷くなって鼻水が水道のように止まらずに出始めたので、鼻水止めのコンタック(の廉価版の市販薬)を飲んで、5時頃にやっと鼻水が止まって寝ることが出来ました。 これは流行り風邪のようでもあり、世間では気管支炎を伴う咳の風邪に加えて、鼻炎に苦しんでいる人も多々居る模様です。 コロナ流行の後、無駄に足繁く病院に通っていた人が通院を控えるようになったせいで、赤字倒産する個人医院や病院も出始めたようです。日本には無駄に個人医院が多すぎるので、こうした淘汰は致し方ないように思います。 加えて、これら医療の合理化の過程で、私共が不便に感じることが度々起こる事と思います。然しながら、これは

私は生涯で何ヵ所に移り住んだのかしら。数えてみたら合計18か所でした。就職後で住んだ場所を数え上げたら14カ所。

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  ①0歳~2歳:小田急線の鵠沼海岸駅近く。一戸建て。父親が三井東圧社員だったので社宅。物凄く広い敷地だった。今は大きな屋敷が四軒建っています。 ②3歳~4歳:大阪府高石市。同じく社宅。一戸建て。高砂コンビナートの近くで、夜は社宅二階の窓からコンビナートの煙突の炎が見えた。総コンクリート造りの一戸建て社宅でした。同じ造りの一戸建てが15軒くらい一カ所に建っていました。今は三井化学の独身寮(羽衣寮)だけが残っています。高石市立高石中学校の隣です。自家用車はスバル360で、父親が週末に自分でエンジンを修理していました。私は排気ガスの匂いが好きでした。 ③5歳~6歳:小田急線の片瀬江ノ島駅近く。一戸建て。同じく社宅。今は大きな屋敷が六軒建っています。物凄く広い敷地だった。私は独りで庭に大きな穴を掘ったり、庭の木に登ったりして遊ぶのが好きでした。 ④6歳~22歳:小田急線の鵠沼海岸駅から徒歩5分。父親が購入した中古の一戸建て。1960年代に建てられた家。敷地は300平米だった。公道に面した間口が狭くて(2mギリギリ)、母親が認知症になった時に売却する際、大層苦労した(要するに、安くしないと売れなかった)。 ⑤23歳~27歳:横浜市青葉区。就職した会社の独身寮。4階建てで個室は6畳程度。お風呂とトイレは共用。夏はエアコンなし。一方、冬は温水スチーム暖房で暑い位だった。 ⑥28歳~29歳:静岡県富士宮市。国内留学した寮。2階建てで個室は6畳程度。お風呂とトイレは共用。樹海近くで、自然に囲まれてとても快適だった。 ⑦30歳:アリゾナ州グランデール。MBA学校。キャンパス内の独身寮は12畳程度。シャワーとトイレは共用。私は頭が悪いので、独身寮に引き籠って一所懸命に勉強していた。 ⑧31歳~34歳:横浜市緑区 長津田駅から徒歩15分。社宅扱いの4階建てマンションで55平米程度。30歳の時に今の妻と結婚したので、マンション住まい。長男がここで生まれた。 ⑨35歳~40歳:横浜市青葉区 青葉台駅から徒歩10分。会社所有の築古4階建て団地。60平米程度。次男がここで生まれた。青葉台は裕福なサラリーマンの街ですな。 ⑩41歳~44歳:ミシガン州デトロイト郊外。戸建て。確か屋内は300平米位で暖炉があった。 妻と息子たちは英語を直ぐに身に付けて、とても生き生きと現地に溶け込んで暮らしていた。私

何故、1980年代まで飛ぶ鳥を落とす勢いだったMBA資格は全く人気が無くなったのか?アメリカでMBA資格を取得して、「英語・中国語・フランス語が堪能。アメリカ・中国で勤務経験あり。管理・財務・営業全ての職種の経験あり。」なのに無職の私が、60歳代になって社会構造の変化と自分の人生を振り返る。

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  日本のTVコマーシャル(恐らくユンケルのCM)で「24時間働けますか!Japanese Businessman!」なんて恥知らずなフレーズが連呼されていた、1980年代後半のお話です。日本のGDPはバブルと共に増加し続けており、早々にアメリカを追い抜いて日本はGDP世界一位になるとも言われておりました。 一方、中国はあまりにも後進国で、インフラが劣悪で従業員の質も確保出来ないため、中国は日本企業の工場進出先の候補にならなかった頃です。 その頃の日本大手企業では従業員に入社後教育を施すことが流行っており、事務系社員の私は、27歳の頃、単なる偶然によりアメリカMBA留学のScholarship資格を会社から頂きました。 それも至れり尽くせりで、先ずは静岡県富士宮市の樹海近くにある国内留学施設で1年程の寮生活+英語研修を受けて、そこで得られる単位をTransferして、アリゾナ州にあるビジネススクールに半年程度行けば大概100%無事に卒業してMBA資格を取得出来るという、将にイカサマのMBA(無理やり短縮)コースに行って来いと言われたのです。 要するに、延べ2年弱、富士宮とアリゾナで遊んで来いと言われたようなものです。 因みに、日本人でもアメリカ人でも、このアリゾナのビジネススクールで通常の手段でMBAを取得しようとすると、先ずMBA校に入学するための試験もありますし、アリゾナ現地に最低2年強、居続けて勉強しなければなりませんし、北米留学には生活費と学費のためにお金が沢山必要ですし、他にも色んな困難が待ち受けているのが普通です。 このアリゾナのMBA校は、Thunderbird Business Schoolと言います。 オチを先に話すようで間が悪いですが、MBA資格人気の低下に伴ってこのMBA校は閉校されて近隣のアリゾナ州立大学に吸収され、そこで細々と「Thunderbird MBAコース」を設置しております。 呆れてしまいますが、つい最近までThunderbird Business Schoolは数あるMBAスクールの中で評価が高く、人気があったのです。 その学校が閉校してしまうんですから、もうMBA校の教育内容に価値のないことは証明済みです。速やかに、このブログを読むのは止めましょう。時間の無駄です。 ともあれ、1980年代の日本大企業の従業員には、海外MBA留

二週間ぶりにテニス。コーチに褒められるのは心外。市中でノイローゼの方を見ると、過去の自分を見るようで気持ちが悪い。

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10/23(月)は、約2週間ぶりに手首の痛みが治まったのでテニススクールに参加しました。 すっかり体がなまってしまったので、おっかなびっくりで力を加減して打ちました。するとコーチに「今日はリラックスして、身体の軸(体幹)がブレずに打てていますね。」と褒めて頂き、とても奇妙な思いをしました。まるで「お前はいくら練習しても上手くならないな。練習しない方がマシだ。」と言われたようなものだからです。 コーチに、先週一週間はほぼずっと寝込んでいた旨を説明したところ「どうも以前も同じことがありましたね。打つ時に力み過ぎているので、体の自然な動きが邪魔されているのが問題なのだと思います。」と賢明なご指摘を頂きました。 行動に性格は現れますので、これはテニスを通じて「お前は自意識過剰だ。」と性格の欠点を指摘されたようなものですが、しかし見事にその通りです。 話が多少ブレましたが、私には身体の軸(体幹)を維持するための筋力が不足していることは自覚しているので、今後はヤミクモにテニスレッスンを受講するのではなく、日々の筋力トレーニングを復活して(夏の間はあんまり暑いのでお休みしていた)、体幹の筋力アップに取り組もうと思います。 今日のレッスン唯一の明るい収穫として、私より明らかに年長の男性がレッスンに参加していたのですが、ボレーもストロークも仁王立ちで、足を全く動かさずに立ったままの場所で打つので、軒並み失敗していました。 これを他山の石として、私は小まめにボールと身体の距離を調整して、後ろから前に向かって体重移動をしながら、ボールをヒットすることにします。 別の見方をすると、他人の不幸は蜜の味、ということでしょうか。 テニスレッスンの後、自転車で東武練馬駅近くの「伝説のすた丼屋」に行って、すたみな焼き定食780円を喫食しました。私は丼物よりも、おかずとご飯が別々に分かれているものを好みますので、すた丼ではなく、すた丼の定食版を何時も注文します。 期待通り、ペラペラ豚肉のニンニク醤油炒めです。美味しいのですが、矢張り60歳を超えたジジイの悲しさで、40歳台の頃に親しかった食欲を満たすことによる湧き上がるような喜びは感じられません。悲しい。 何だか欲求不満のまま、自転車で東武練馬駅から下赤塚駅まで西向きに走って、光が丘公園を通り抜けて石神井公園に戻って来ました。どうも東武線界隈は、西武線

人口集中は、生活・経済・事業活動の効率化を可能にしてくれる。逆に過疎化すると、あらゆることが困難になる。

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私は2009年頃に2年間、山梨県北杜市の長坂駅近くに住んでいました。幾つか工場もあって、スーパー・飲食店、および多くのリゾート宿泊施設(および別荘群)もありました。 空気はキレイで甲斐駒ヶ岳が目の前に見える景勝地で、その反面、お世辞にも人が沢山住んでいるとは言えない地域でしたが、ある程度は都会的に快適な生活をすることは可能でした。故に、過疎による不自由はあまり無いけれど、過疎による不自由が生じるか生じないかギリギリの人口程度だと感じていました。 寧ろ、政府が1990年代に田舎にばら撒いた「ふるさと創生事業」のお陰で、地元民と別荘族を対象とした天然温泉・体育館・(屋内と屋外の)ゲートボール場・テニスコート・運動場・屋内プールが矢鱈と何か所もあって、且つそれらは利用者が居らずに酷く閑散としており「こんな沢山施設があっても、住民は年寄りばっかりなのになぁ。」と不思議に思いつつ、私は温泉と室内プールはフルに利用しておりました。 私が住んでいた頃から15年程度が経過して、ウェブで山梨県北杜市の長坂駅周辺の様子を調べてみたら、私が通った地元スーパーやまと長坂店(当時から店内が薄暗くて活気が無かった)は破産して閉店しており、私が通った近隣の不味い飲食店も幾つか閉店しておりました。私が通っていた民営テニススクールは閉鎖されておりました。要するに、街は衰退の一途を辿っています。 何しろ住民が壊滅的に少ないので、サービス業全般を経営して採算黒字を維持するのはとても大変だろうと思います。又、上述した天然温泉以下の公共施設は、メンテ・修復・清掃・管理の維持費用が多く掛かるので、少ない現地住民をお客にしてこれらを維持していくのも大変だろうと思います。従って、私が住んでいた当時(300円/回)と比べて、市営の天然温泉の使用料は倍(700円/回)になっておりました。 現在私は練馬区で隠居生活を送っておりますが、近隣の大型スーパー3軒は何れも自転車が停め切れない程に活気が溢れており、飲食店が閉店したら、直ぐに次の新しい飲食店が入れ替わりでオープンします。近辺では、新築工事中のマンションも建設途中の一戸建ても散見されます。地域住民は決して高齢者ばかりではなくて、子育て世代の若い家族世帯も大変に多いので、私営保育園が沢山あって、平日昼間は保母さんがカートに小さな園児を沢山載せて、公園へ遊ばせるためにと

植物状態になった91歳の親に、胃ろうやカテーテル点滴などの延命治療をするべきか?自然に任せて看取るべきか?ある実際例のご紹介。

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  私の母親は、私が22歳で1985年に企業に就職して企業独身寮に入居して以来、藤沢にある実家で40年ほど独り暮らしを続けておりました。80歳代後半になった5年ほど前から認知症が酷くなり、周辺の関係者に迷惑を掛けるほどになったので、2020年に実家近く、辻堂駅近くのサ高住に入居してもらいました。 何故、息子である兄や次男の私が、認知症の母親を共に東京都内にある自分達の家に招き入れなかったのかと言うと、私共のような介護の素人がそれをやると、兄共や私共の生活が確実に破綻したからです。 母親が実家を出て入居した施設は、サ高住とはいっても実際の入居者は認知症の老人100%で、要するに認知症の老人を集めて介護専門の方々に食事・入浴・シモ(使い捨てオムツを含む)のお世話をして頂く施設です。入居者は、施設から外へは一歩も出られないのが通例です。しかし心配は無用で、認知症になった老人は警戒心が強いので、施設の外に関心を持つことは無く、6畳の個室でTVを見続けて、毎日を過ごしている様子でした。 母親は実家で独り暮らしをしていた時は、実家をゴミ屋敷にしたり、実家キッチンで火災を起こしかけたり、近隣の他人の住宅に無断で侵入して警察を呼ばれたり、電車踏切の中で座り込んで助けられたり、近隣の商店街でツケで強引に買い物をしたり、歯科医で治療を受けた挙句に医療費の支払いを拒否したり、様々な問題を起こしていました。 実家に独りで居住している間に、母親は上述のような認知症に伴うトラブルを多数起こしていたので、2020年からサ高住施設に入居した後、本人もサ高住施設が実家よりも住みやすいと言っておりました。サ高住に入居後すぐに、サ高住の居住費を賄うために藤沢の実家は売却しました。 実家は母親の名義資産だったので、母親に資産状況を説明して実家売却が不可避であることを納得して貰ったのですが、実家売却の後も、母親は度々「実家の管理はどうなっているの?」と私に質問していました。既に実家は売却して現金化していた訳ですが、90歳近くになって認知症も進んでいたので、説明しても理解出来ない知能レベルになっていたのだと思います。 母親は2023/3月末に脳内出血で倒れたのですが、倒れる一週間前に偶然、私は母親を辻堂駅近くのサ高住施設に訪問して、母親が好きなチョコレートのおやつを手渡しました。その時、母親は椅子へ座ることも