2023/3/29、91歳の母親が過去3年間住んでいたサ高住(JR辻堂駅近く)にて脳内出血を起こして意識を失い、2023/5/3に亡くなり、2023/5/5に茅ヶ崎市斎場にて火葬を済ませるまでの記録。
私のブログは、私が最大の熱心な読者で一般読者は皆無と言う、極めてケッタイなものです。要するに、私の備忘録としての役割が唯一の存続理由です。
今般、親族の直接立会人は私だけと言う、私一人が現場責任を背負いこむような状態で、母親が2023/3月末に倒れてから2023/5月初めの火葬までの諸事を私が担当しました。
一連の出来事について、その工程に現場で関与しなかった親族のために、明瞭な記録を残しておくべきと考えます。以下に時系列で記録します。
私は冷血漢だけれど、それでも辛いことを思い出すのは嫌なので、この記録を書き始めるまでには日数を要した。
市井の人々は、私をはるかに上回って繊細で居られるので(肝要なことには、恥知らずで無神経だけれど)、こんな心に仕舞っておきたいことを時系列の記録を残す人は、古今東西現れないだろう。
2023/3/29:
18:00頃、兄より第一報あり。母親がサ高住にて、脳内出血と思われる症状により倒れた由。但し兄は入院中で、一切対応が出来ないので、私が対応するように依頼された。
以降、母親の火葬まで、親族では私一人が現場対応者となる。兄とは頻繁に連絡を取り合い、母親の容態に応じた対応策を、合意した上で実施。
18:00、直ぐにJR辻堂駅近くのサ高住に私が電話連絡。母親が倒れた際、関係者が近くに居たので倒れた母親は頭部を強打することは無かった由。母親が救急車で緊急搬送された辻堂駅前の徳洲会湘南藤沢病院へ、家族が直ぐに向かって欲しいとの指示あり。
私は練馬に住んでいるので、現場に到着するのは20:30頃になると伝達し、直ぐに私が電車に乗って病院に向かった。
20:30頃、辻堂駅前の徳洲会湘南藤沢病院に到着。1階奥にあるER(緊急病棟)に行くよう指示される。母親と対面。私が到着するまで、サ高住の担当者が母親に付き添ってくれていた。深く謝意を申し上げた。
母親はストレッチャーに寝ており、左半身全てが動かない状態。右半身は多少動くようで、突っ立っている私に、右側の椅子に座るように促す動作をした。ER看護師が身体反応を確認。左半身は感覚なし、右半身は感覚あり。母親はかろうじて看護師の質問に唸り声で応えられる状態。
緊急搬入後、直ぐに諸検査を行った結果、脳内出血が起きたことは確実と見做していた。先ずは止血薬&血圧を下げる点滴をしている旨、説明を受ける。血圧・脈拍・呼吸等のバイタルサインは問題なし。即ち、直ぐに亡くなる状態ではないと判明。
この徳洲会病院で働いている医師・看護婦・事務員は全員、若くてキビキビとしており、特にER(緊急病棟)で働いているのは極めて若い方ばかりだった。頭が下がる思いだった。
61歳の私が社会の一線に居ないことを痛感した(リタイヤしているんだから当たり前)。
22:00頃、ER(緊急病棟)から6Fの内科病棟へと移動(=病棟へ入院)させる旨、説明を受ける。
恐らく、母親の91歳と言う年齢に鑑み、外科対応ではなく内科的対応(要するに経過観察)が適切と医師が判断して、6F内科病棟への入院になったと推測。
病棟への入院に付き添うが、コロナ対応のため、退院まで母親とは一切面談できない旨を説明される。
22:30頃、看護婦から今後の対応について説明あり。
退院出来るまで回復させることを目標に、2週間程度を目途に入院させる由。責任の移譲等について合意。
既に事務部門の勤務時間は終わっているので、翌日、入院手続きのために再来院して欲しいと指示あり。そのまま私は練馬自宅に帰宅。帰宅は0時過ぎ。
2023/3/30:
翌日午前中、入院手続きのために徳洲会病院を再訪。諸手続きを行う。
母親担当の自治体ケアマネージャーに連絡して、急遽、午後に藤沢駅近くの事務所にて面談することにした。
母親の容態は要介護2以上(寝たきり)になることが確実なので、直ぐに要介護1→2以上への申請手続きをケアマネージャーに進めてもらうことにした(要するに自己負担のお金を減らすため。お金を節約するための手続きの話です)。
終末期医療に関わると、多くの家族は突然に医師から「胃ろう施術をしますか?胃ろうにしないと栄養が摂取出来なくて死にますよ。」と迫られ、その場で判断して答えなければなりません。皆さんは目の前の責任回避のために、植物状態になる可能性が極めて高い親に対して、皆さん胃ろう施術をOKを医者に回答してしまうのが日本の現状です(私は違います。以下参照)。
一方、徳洲会湘南藤沢病院は緊急期の対応病院なので、当該病院への入院2週間程度の後、退院後の入居先を探す必要があることを合意(=今後は寝たきりの状態が続くことを関係者全てが理解している状況下)。
これに対して私は、従来から兄と合意済みの内容で、延命治療はしない意向であることをケアマネージャーに説明。
ケアマネージャーは当方の意向(=延命治療はしない。要するに医療措置を止める)を理解し、自宅に戻る選択肢は無いので(=鵠沼にあった実家は売却済み。私兄の夫々の自宅は都内なので遠く、狭くて不便で、寝たきり老人の受け入れは不可能)、①昨日まで入居していたサ高住で寝たきりへの対応が出来るかどうか、②緩和期治療の病院(=老人寝たきり病院)の選択肢はあるかどうか、を調査してくれることになった。
2023/3/31~2023/4/21の間のやり取り:
①徳洲会病院 内科医師と面談(3回)
91歳と言う母親の年齢に鑑み、完全な回復は相当に困難である旨、医師から説明あり。
私から「であれば、倒れる前に既に認知症が相当に進んでおり(私は偶然、倒れる前週に母親とサ高住で面会していたが、私のことが判らないレベル)、血圧を抑える点滴によって脳に血が廻らずに認知症が更に進むことは確実であり、且つ今後は寝たきりで脳への刺激が全くない生活が続くことになるので、早々に植物状態になるのではないか?」と問題提起。
内科医師は私の意見に同意。今後は寝たきり→植物状態の推移を辿ると予想される由。
であれば、徳洲会病院を退院後は胃ろうやカテーテル点滴はせず「医療行為なしに、安らかに最後を迎えさせたい。」と私から申し出。
内科医師は私の意向に理解を示した。「それが自然な死の迎え方だと、私も思います。」と医師の発言あり。
内科医師からは後日、「喉が麻痺しており、口からの栄養摂取の能力回復は期待出来ない。」「入院時よりも容態は悪くなっている。」と電話で現状報告あり。
②ケアマネージャーと相談(複数回)
上述の内科医師とのやり取りに鑑み、2週間後の母親退院後は、医療行為はなし。その条件で、最善の場所(=安らかに死を迎えられる場所)に母親を移送したい旨を相談。
ケアマネージャーは複数関係先と協議し、今まで3年間入居していた辻堂駅近くのサ高住のサービス+派遣介護士サービスで、充分に対応可能である旨を教えてくれた。
今まで3年間居住していた部屋だから、寝たきりの母親も安心出来るであろうと。
その旨に賛成し、サ高住への再入居と派遣介護士サービス開始について、ケアマネージャーが手続きを進めるように頼んだ。
③徳洲会病院 事務課担当者と相談(複数回)
病院側とサ高住がやり取りした結果、退院日を2023/4/21にして欲しいと病院の事務課担当者から連絡を受けた。了解した。
病院からサ高住までは極めて近く、介護タクシーが送ってくれること、サ高住では派遣介護士が迎え入れて、居室に移送すること、予め寝たきり老人用の自動寝返り機能付きのベッドをレンタルすること等、擦り合わせを行う。
2023/4/21 退院:
11:00の退院支払い手続きの後、6Fの内科病棟で母親を引き取り。
介護タクシー運転手が、6Fフロアーにストレッチャーを運び込んで、待っていてくれた。ストレッチャーに母親を寝せ替えるのは病院側スタッフが担当。
介護タクシー運転手は、母親を乗せたストレッチャーを押して介護タクシーまで運び、母親が寝た状態のストレッチャーを介護タクシー後方から積み込んで、運転して転院先の玄関先までストレッチャーで届けるのが仕事。介護タクシー運転手は、患者に一切手を触れない。この点の棲み分け(タクシー業と医療業)は見事。
3週間ぶりに母親の様子を見たが、残念ながら容態は相当悪くなっており、自発的な体の動きや発声はゼロ。完全な寝たきり老人だと認識するのが、親族としては真っ当な価値判断だと思う。目は開きっぱなしで焦点は合っていない。
自分の悪い予想通り(脳内出血で倒れる→早い時期に植物人間になる)に事態が動いていることについて、自分の悪い推定が当たっていたなぁという達成感と共に、自分が嫌なことばかり的確に予想を当てることについて、疫病神みたいな思いがした。
俺はDeath Noteか?みたいな感じ。
ストレッチャー式のタクシーにて、10分ほど乗車でサ高住玄関先に到着。介護タクシーの使用料は4,000円だった。
派遣介護士・ケアマネージャー・サ高住担当者ら合計6名が出迎えてくれた。彼らが協力して、介護タクシー所有物であるストレッチャーを使用して移送作業をしてくれて、無事に3階居室への母親の再入居(ベッドへの寝かし替え)完了。嬉しくてホッとして、涙が出そうになった。
2時間後、派遣医師の回診を受ける。これは近々訪れる死亡診断書を書く日のための準備。回診は極めて事務的に5分で終わった。
以降、医師とのやり取りは訪問介護士を経由して行った。家族(私)の意向によって、退院後は点滴を止めたので、母親の余命は数日であろう、と教えて貰った。
2023/4/22~2023/5/3 訪問:
一日おきのペースで、私が母親を訪問。他の訪問者は無し。
訪問介護の担当者は、2回/日、とても献身的に母親の面倒を見て下さった。
私からの問いかけに対して微かに首を縦と横に振る程度。目は開きっぱなしで、体は一切動かない。「点滴は痛いから止めたよ。」と説明すると、微かに首を縦に振った。
辻堂駅前で花を買って来て「見えるかい?」と尋ねると微かに首を縦に振る。兄が入院中で面会に来られない旨を説明すると、微かに首を縦に振る。
医学的に見ると母親に意識はある(微かに首を縦横に振る)のだが、常に目は開きっぱなしで焦点は合っておらず。一般生活への回復可能性と言う観点から見ると、母親は植物状態だと思った。この見解には、日本国内の世論に鑑みると異論も多々あると思う。
訪問介護士から「普通は数日でお亡くなるになるのですが、もうすぐ2週間経過しますから、お母さまはお体がとても丈夫ですね。」と意見を頂戴する。
2023/5/3 死去:
昼前に訪問。辻堂駅前で花を買って来て母親に見せたが、反応は極めて微か。
同日、練馬自宅に帰宅後23:00過ぎに、サ高住の夜勤担当者より「母親が呼吸をしていない。」と連絡あり。既に練馬から電車で行くには遅いので、サ高住が派遣介護士・派遣医師に連絡するように依頼。
同時に、私から葬儀会社に連絡し、母親の搬送準備を依頼。
サ高住から連絡を受けた訪問介護士が直ぐに現場に駆け付け、母親の体を清めてくれた(事前に依頼しておいた)。
派遣医師も直ぐ来てくれて、母親の死亡診断書を2023/5/4 1:00に書いてくれた様子。複数個所に電話して指示をしていたので、私が寝たのは2:30頃だった。
死亡診断書の準備は出来ていたので(1:00頃)、葬儀会社は直ぐに安置所へ遺体の搬送が出来た筈なのだが、手違いで搬送は2023/5/4 朝9:00頃になった様子。
2023/5/4 12:00頃に私がゆっくりとサ高住に到着。
母親が居なくなってがらんとした居室内の衣類や雑品を全て廃棄して掃除して、サ高住担当者に謝意を申し上げた。
葬儀業者から連絡があり、茅ヶ崎市斎場での火葬が2023/5/5 10:00からに決まった由。朝に練馬自宅から電車で向かうと遅刻する恐れがあるので、2023/5/4夜は、藤沢駅近くのビジネスホテルに泊まることにした。火葬の立ち合いは私一人。
2023/5/5 火葬、遺骨を菩提寺に届けた:
朝に藤沢駅前のビジネスホテルを出発し、9:00頃に茅ヶ崎市斎場に到着。辻堂駅からタクシーで3,000円かかった。周囲を畑と畜産農家に囲まれた田舎に立地している斎場。
ウェブで調べると「畜産の糞尿の匂いが耐え難い。」なんて投書が多いけれど、私は7年間駐在していた中国で、日常的に人間の糞尿の匂いが耐え難かったけれどね。日本人はバランス感覚が乱れておりますな。
葬儀会社の担当者と面談。業務委託料9万円弱(直葬式)を支払った。10:00から火葬。同日最初の火葬だった。ゴールデンウィークは告別式などを休み明けに行う遺族が多いので、火葬場が空いているらしい。亡くなる時期としてゴールデンウィークは穴場ってことかしら。逆に、年末年始は火葬場が閉まるので、その前後は火葬場がたいそう混むそうです。
11:00、火葬終了。独りで遺骨を拾った後、窓口で受け取った埋葬許可証と骨壺を持って、辻堂駅前にタクシーで戻ってきた。大船駅前の菩提寺に遺骨を預ける約束の時間が15:00なので、大きな遺骨をぶら下げ、辻堂駅前のショッピングモール内で、食事や読書で時間をつぶした。
ゴールデンウィーク真っ盛りだったので、若い家族連れで幸せな大賑わいのショッピングモール内で、独り陰気に、大きな遺骨をぶら下げて時間をつぶすのは大変居心地が悪かった。
この厄は、誰かに全部引き継ぎたいものだ。
15:00、大船駅前の菩提寺に遺骨と埋葬許可証を預けた。納骨は6月の予定らしい。
私はこの菩提寺が大嫌いです。理由は省略。一言でいうと、葬式坊主は死ね。私は日本を誇りに思っているが、葬式坊主は日本社会の恥だ。
母親が倒れてから亡くなるまで、一切の現場判断は私が担当したので、以降の寺対応と相続手続きは兄が担当してほしい旨、兄に対して電話で依頼した。兄は了解。
因みに私は自動車もベンツも嫌いな庶民的な性格だから、電車派です。この文節は唐突ですが、意味は省略。一言でいうと、葬式坊主は死ね。
1か月間、独りでお疲れさまでした。私自身へ労いの言葉をかけたいです。
日本の緊急医療と介護関係の実務担当者は良い人ばかりでした。日本万歳。2023/5/16